死刑肯定論と世間と因果応報。因果応報という考え方の断捨離
示談と因果応報
ある俳優さんが婦女暴行容疑で逮捕され、その後示談が成立して釈放された。マスコミを見ていると、どうやらその対応が釈然としないようで、俳優のみならずその母親をも何か処罰が必要であるかのような反応をしています。
マスコミというのは「世間」そのものです。
芸能界が、未だに上下関係がきっちりとした体育会系の世界であるのはその証でしょう。
示談が成立し、被害者は金銭的に賠償を受ける。容疑者となった俳優は、芸能界を引退することになったものの、刑に服することはなくなりました。
犯罪は、被害者と加害者の二人の間の問題なので、本来第三者がどうこう言うのはお節介以外の何者でもありません。
けれども世間は納得しない。それは、世間というのが、「因果応報」という考えに支配されているから。
因果応報。つまり、いいことをすれば評価され、悪いことをすれば罰せられる、という子供の頃から教え込まれる法則。
罰するのは、人間ではなく、人智を超えた何かであることも多く、仏教説話や昔話、日本永代蔵、あるいは、ドラマのほとんどが、因果応報が完遂されて物語は終わります。
因果応報が完結しないことは、世間にとってとても不愉快のようです。
だから、婦女暴行事件を起こした俳優が、処罰されないことは、大変不愉快なことで、
同時に、示談を受け入れた被害者に対しても不愉快な思いをするのでしょう。
実際、被害者に対して、週刊誌は、示談金の額や「示談交渉に闇世界の人間がいた」など、あることないことを探り、被害者をある種貶めようとしています。
これは、ゲスのすることです。
そして、どうしてマスコミはこれほどゲスになれるのか。
それは何度も言うように、「因果応報の完結」がなされないと不愉快だからでしょう。
死刑制度存続派が8割を超える日本
死刑制度廃止論者のいうことは、全くもって理論的、理性的で正しいと思っています。
しかし、世間は絶対に受け入れることはないとも断言できます。
それは、何度も言うように、世間の「因果応報」の考えに反するからです。
まず、死刑制度に犯罪抑止効果はありません。むしろ死刑になりたいから犯罪を犯す人すらおり、重大犯罪を誘発しているとすらいえます。
また、冤罪事件があり、これは全く無実の人間を死刑にしてしまう恐ろしいものです。
確率的に少ないから自分はおよそ大丈夫と考える人がいますが、自分がそうなるという想像力がない愚かな考えだと思います。
しかし、被害者の遺族の処罰感情という一点のみは、死刑制度存続を支える重大な根拠になると思います。死刑制度廃止論者もこれをないがしろにする人はいないと思います。
その上で、死刑制度の弊害とのバランスを考え、そして結論を出しているはずです。
ただ、この処罰感情というのも、なかなか難しいもので、「因果応報」の考え方の弱点である、他人事にも首を突っ込みすぎている、という批判が、まさに自分事になることで解消され、まさに錦の御旗化します。
また、日本の世間は、因果応報の完結が重要なので、はっきりいうと死刑囚が無実であるかどうかというのには興味が無いのです。逮捕された=犯人、という形で頭の中がスッキリして終わりなので、むしろ「捕まったのだから犯罪を犯したに違いない」という形で、因果応報を完結させようとすらします。
そして、犯罪抑止効果や誘発効果について、世間は何らの関心もないのです。
したがって、自分たちの「因果応報」の完結(悪者が捕まってスカッとしたい)だけに関心があるといっていいでしょう。
こういうと、断定的だという人もいますが、実際に、「因果応報」という考えから自由なキリスト教世界では、死刑廃止が主流です。
キリスト教が因果応報から自由なのはヨブ記を参照してください。
因果応報という考えを断捨離
世の中を見ていると、善行が報われることもあれば、報われないこともあります。
悪行が罰せられる事もあれば、見逃されることもあります。
善人が失敗し、悪人が成功を手にすることもあります。
この世の中は、残念ながら因果応報なんていうものはありません。
あるのは因果応報を希望する「公正世界仮説」という認知バイアス(偏見)があるだけです。
因果応報という考えにとらわれている限り、それが完遂されないことに、無駄に苛立ったり、ゲスになったりします。
それは人生にとって本当に無駄なことなので、穏やかに生きるには不要なものです。
だから、私は因果応報という考え方を断捨離することにしました。
死刑廃止論を主張する日弁連も、どんなに理知的に理性的に死刑制度の弊害を訴えても無駄です。それよりも、どうすれば因果応報という偏見を解消できるかを考えたほうが、遠回りのように見えて近道だと思います。
[スポンサーリンク]
[スポンサーリンク]