重松清『疾走』を読む

買ったもの

重松清『疾走』は、名作としてよくネットに名が上がる小説の一つだ。
その評価にしたがって手にとって見たものの、冒頭20ページで挫折してしまっていた。
原因の一つが、二人称(神視点)小説を思わせる、主人公に対する「おまえ」という書き方だった。
なかなか読み慣れない書き方で、ページをめくる手が止まる。
『疾走』は本棚にしまわれたまま、一年近く経ち、常に「読まずに処分」候補筆頭となっていた。
表紙もちょっと怖いし。

ちょうど土日時間があったので、本棚の本を減らそうと久しぶりに手に取り、ほとんど忘れた冒頭のことはさておいて、続きから読み進めてみた。
読みすすめていくと、神父が登場し、聖書の一部が引用され、そして、優しい主人公に不幸が次々降りかかる。
それで「これはヨブ記だ! ヨブ記の再構成だ」と直感。そこから終わりまで一気だった。

--2015年11月14日追記--
検索から流入される方が予想外に増えたので注意書き
(以下ネタバレがあるので、未読の方は注意してもらいたい)
--追記ここまで--



ヨブ記とは

ヨブ記。旧約聖書にある一つの物語だ。
信仰厚い義人ヨブが、命以外のすべて(名誉、財産、健康、子孫など)を悪魔に奪われ、神への信仰を試される物語。
善い行いをしている人間は良い人生を送るという、公正世界信念を否定する物語でもある。
善人が苦しむ、という衝撃の内容は、アブラハムの宗教でない人をも魅了する。
私も旧約聖書の中でヨブ記だけは好きだ。

一方、ヨブ記にはひとつの疑惑がある。
ヨブ記の最後のシーンだ。
主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一万くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。
彼はまた七人の息子と三人の娘をもうけ、長女をエミマ、次女をケツィア、三女をケレン・プクと名付けた。ヨブの娘たちのように美しい娘は国中どこにもいなかった。彼女らもその兄弟と共に父の財産の分け前を受けた。ヨブはその後百四十年生き、子、孫、四代の先まで見ることができた。ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ。
この、ヨブの前に神が現れそして全てを救済する最後のシーンはハッピーエンドになるよう後世誰かが付け加えたものではないか、という疑惑だ。
デウスエクスマキナよろしく、神がすべてをリセットしてヨブを幸せにする結末は唐突で読む者をある種しらけさせる。

神はしゃしゃり出てくるべきじゃない。そう思う人もきっと多いはずで、重松清さんも多分そうだったのではないだろうか。
そして、自分がヨブ記のようなものを書くとしたらどんなものを書くか。そういうふうに考えて書いたのではないか。

疾走のあらすじ

疾走のあらすじはこうだ。
主人公、シュウジは中学生。
秀才だった兄が高校で落ちこぼれ心が壊れてから、すべての歯車が狂いだす。
兄の放火事件から、友人を失い、親友には裏切られ、学校では孤立。父は失踪、母もギャンブル依存アル中になる。
バブルで故郷は変わり果てて、心を許せる同級生エリも、立退き料をせしめた義父とともに東京に転出してしまう。
そして中学を卒業した主人公は、その故郷も捨てざるを得なくなる。
心の拠り所になりかけた女性アカネも、その情夫のヤクザを殺した主人公の身代わりに警察に捕まり、
逃げてきた東京で再開したエリも義父にイタズラをきっかけに、心を壊していた。
エリの義父を刺し、警察から追われる身となったシュウジは、故郷に戻り、そして予想に違わぬ結末を迎える。

この小説の肝

シュウジは普通の、極めて普通な優しい中学生で、それでも中学生に背負わせるにはあまりに酷な重荷を背負わされる。
ヨブと同様、心は極限まで追い詰められる。謂れもなく。
けれども、ヨブの前に現れた神は、シュウジの前には現れない。
現代の作家重松清が、デウス・エクス・マキナを出すわけがない。
でも、神はいないのではなく、存在している。シュウジの前に現れないだけだ。
神はずっと視点として存在し、シュウジを「お前」と呼びながらじっと見ている。
助け舟を出すことなく、ただただ見ている。
シュウジが追い詰められていく過程は、巧みだけれど現実味はない。ヤクザもエリの義父もある種テンプレといえる。
けれども、神が善人に対して助け舟など出さず、ただ見ている、という点には恐ろしいほどのリアリティがある。
リアリティ、なんてものではなく、リアルそのものかもしれない。

この小説の肝はここにあるのだと思う。
つまり、善人を助ける神を書かないことで、現代版のヨブ記を書いたのである。
そして、デウス・エクス・マキナと違う、ノットバッドエンドを重松清は最後の最後に提示する。

深読みのし過ぎかもしれないけれど……

ただ、これは読み過ぎかもしれないけれども、最後の最後にはこのノットバッドエンドと同時に、
一見神視点と思われた、「おまえ」と呼ぶ主体が神父であると明らかにされる。
これは「神様だと思った?神なんていないよ」というメッセージだろうか。
(どう読んでも「おまえ」と呼ぶ主体は神なのだけれど……)
ヨブ記の結末のモヤモヤと同様のモヤモヤを現代版ヨブ記「疾走」は再現しているのだろうか。
そうだとすると、重松清の技量は神がかりのように思える。

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重松清「疾走(上)」・「疾走(下)
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