わからないものをわからないものとして受け入れる
世の中にはわからないものがあります。
いやむしろわからないもののほうが多いでしょう。
でも、多くの人は「わかった気になる」ことを望みます。
SMAP解散騒動で騒いでいる人を見ていて
SMAPが解散するかどうか、というニュースが民法のみならずNHKにも流れるほど大騒ぎになりました。
おまけに、意図が全く良くわからない「謝罪」をSMAPのメンバーたちがしたものだから、騒ぎが大きくなってしまいました。
ある人は、唯一謝らなかった木村拓哉が他のメンバーを裏切ったという。
ある新聞は、木村拓哉はむしろメンバーのために頑張ったのだという。
あるお調子者は、木村拓哉はタイム・トリップして何度もSMAP解散を防いでいるのだという。
あるファンは「SMAPメンバーが語る内容だけ信じよう」とかいう。
確かにSMAP解散報道から存続会見までの流れは、部外者である私たちにとって理解の範疇をこえるものでした。
けれども、それは、どんなに憶測をめぐらせても理解できないものであり、理解しようとすることは無駄なものです。
邪推をして面白おかしいストーリーを組み立てる人は有害ですし、
「自分の信じたいストーリー」だけ信じる人も不健全です。
ですから、こういったものに対しては「よくわからないもの」として把握しておくのが一番です。
「理解」を阻害するもの
世の中には、今はわからないけれども、頑張ればわかるものもあります。
辛抱強く調べて考えることによってのみわかる物事は、解明されるには時間がかかります。
しかしおそろしいことに、人はそんなに忍耐強くなく、「わかった気になりたい」生き物です。
その結果、真実に似た偽物で満足して、いざあらわれた真実には目を向けないということもよく起きます。
進歩するには、物事の理解、というステップが大事ですが、この「分かった気になる」ことで人の理解は阻害されます。進歩も阻害されます。
「わからないもの」として横に置くことが正解
ですから、わからないことを「分かった気になる」のはやめて、わからないことはわからないものとして把握するのが大事です。
急いで知る必要のないニュースならなおのことです。
いまはわからないから、もっと情報が出てきてから考えよう。
そうすることで多くの思考リソースや時間が節約できる。
そう思います。
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