とある外国人から見た近藤麻理恵~生と死と断捨離と

シンプルライフ 断捨離

(断捨離する人が憧れるホテルのような家)

ニューズウィークに近藤麻理恵の本の書評が載りました。
ローラ・ミラーというコラムニストの書評です。

(ニューズウイーク日本語版)こんまりの魔法に見る「生と死」
(原文)Someday Never Comes

まず、近藤麻理恵の本が、海外では自己啓発本の類として売られているようですが、ローラさんは内容を読んで、
(引用)この本は80年代風の自己啓発本ではない。むしろ「同情」や「哀悼」のイメージを表現するグリーティングカードだ。

と考えを改めています。
つまり、
私たちは必ず皆死んで故人になるという事実をこの本が間接的に繰り返していることから、
この本は、やがて死ぬ読者(とこんまり自身)に対して、同情や哀悼を表するものなのだと思ったようです。

「死」を意識してミニマリストや断捨離をする人はかなりいます。
ゆるりまいさんもそうでした。
こんまりさんも「死」を意識しているだろうことは、よく理解できます。
死ぬことを意識して今に集中して生きることは果たしていいことなのか。
コラムの主題はそこにあります。



今に集中して生きることは果たしていいことか

(引用)「大切なのは、過去の思い出ではありません。その過去の経験を経て存在している、今の私たち自身が一番大事」だからだ。
 私もそう考えていた時代がある。でも間違っていた。長く生きていると大切な記憶も薄れる。それを復活させてくれる写真や手紙は本当に貴重な物だと今は思う。近藤はそうは思わないようだ。孤独な過去を思い出すのが嫌なのだろうか。

(若干人格攻撃のように読めなくもなくて、こんまり信者さんは不快に思う表現になっている気がしますが。)

この是非については大して長く生きていない自分にはよくわかりません。
ただ、記憶は本当に簡単に消えてしまったり、自分に都合よく捏造されたりします。
たとえば私の震災での記憶は、テレビの映像とごちゃごちゃになってしまい、何が実体験だったのかわからないほどです。
今の自分のアイデンティティが過去の記憶の集積によるところが大きいのに、その記憶を蘇らせてくれるものを捨てるのは確かにリスキーではあります。
(引用)がらくたには近藤の見ようとしない意味がある。いつか使うためにとっておくのは、使う日まで自分は生きるという意思表示。古い写真や本をとっておくのは、見たり読んだりする時間がまだまだあると信じたいから。記念品の存在は、それを記憶する人が生きている証しだ。
 そんなの嘘、かもしれない。でも、生きていくには必要な嘘だ。そう、がらくたの山にこそ生の歓びはある。

結局はバランスの問題か


結局のところバランスなのだと思います(かなり無難な考えでつまらないですが)。
過去や未来に意味のある物が、現在の自分を圧迫するなら、そういう物は捨てたほうがいいでしょう。
いまはデータ化も簡単にできる時代ですから、過去の大事な思い出のトリガーとして、必ずしも物に頼らなくてもいいでしょう。
一方で、輝かしい未来への希望を与えてくれる物であれば、今必要でないものであっても、現在の自分にとって有益なものなのですから、捨てる必要もないといえます。

ただ、多くの人にとって、過去の物が現在の自分を圧迫しているのが現実ですから、断捨離は無駄ではないとは思います。

そして、多くの人は、こんまりさんのようには徹底することはできませんが、それが却って多くの読者にとって、もっともよくバランスが取れた結論を導くでしょう。

そういう意味で、こんまりさんが断捨離を先導することは読者にとって、社会にとって良いことだと思います。こんまりさんがそれで幸せになるかどうかは別として。


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