想像力は無限大、なんて嘘。個々人の想像力なんて吹けば飛ぶようなもの
想像力は無限大。そんなキャッチフレーズがある。
でもはっきり言ってそれは嘘だ。
人間の想像力なんて大したものじゃない。
もちろん人間以外の動物と比べれば、すごいものだけれども。
こういうと否定的な意見も出てきそうなので、少しエピソードを入れようと思う。
落ちていたビニール傘
小学生の頃だ。その日、台風が接近していたのだけれど、太陽が照るほど天気が良かったので、学校に向かうことにした。けれども、通学途中で注意報が警報に変わったとかで、学校に着くや、「休校だから家に帰れ」と教頭に言われて帰ることになった。。
私は言われたとおりに元きた道を引き返すことになった。
帰り道、風が徐々に強くなり時折、激しい突風が吹いた。
雨はさほど強くなかったので傘を閉じ、それでも風にあおられながらヨタヨタと歩いていた。
通学路には前日の突風で壊されたと思われるビニール傘が、地面に大輪の花のように咲いていた。
私は前方数メートル先の歩道に咲くビニール傘の花の方に向かって歩いていた。
前からコロコロと音を立てながら車道を転がる発泡スチロールの箱が、急にテイクオフし視界から消えていき、私が正面を向いたその時目の前には、地面に咲いていたハズのビニール傘が迫っていた。
発泡スチロールを巻き上げた突風がそれだけでなくビニール傘も一緒に空に巻き上げていたのだ。
雄しべのようになっていたむき出しの骨が、私の頬をかすめて、軽い切り傷をつけた。
私は、後方に落下した傘の音を聞くと、怖くなって駈け出した。
私が怖くなったのは、顔に傷がついたためではなく、あと少しズレていたら自分は確実に失明していたのではないか、という恐怖だった。
それ以来、私は、落ちている壊れた傘を見ると、飛ばないよう傘を閉じて持ち帰るか、駅などで捨てるかするようになった。
誰も拾わないビニール傘
それから大分経ち、大学生になった頃だった。前日が風の強い日だったか、大学に行く途中の道に、やはりビニール傘が捨てられていた。
今度も傘を回収してどこかに捨てようかと思ったけれども、広い車道を挟んだ向かい側の歩道だったので、諦めて大学へと向かった。
大学のゼミが終わって帰るとき、再びビニール傘に遭遇した。朝見かけたものだった。
結局誰にも回収されることなくその日一日ずっとそこで咲いていたわけだ。
大学の学生はおよそ千人くらいはいるだろう。加えて近くの別の大学や高校の生徒もそこを通るので、かなりの人間がビニール傘のそばを通り過ぎていったはずである。
けれども、誰一人として傘を閉じたり、処理しようという行動を起こした人間はいなかったのだ。
壊れた傘だからたたむのに時間がかかると思う人もいるだろうけど、そんなことはない。
ものの30秒もあれば壊れていても傘を閉じることはできる。何本も傘を処理してきたからそれは間違いない。
持ち帰って処分するのは面倒かもしれないが、閉じるだけでも傘は風で飛ぶことはなくなる。
結局、落ちている傘が飛んで人を失明させるという想像力を働かせる事のできる人間が、いないということだ。
想像したけれども、面倒だから行動しないということもあるだろうけど、そもそも行動を伴わない想像なんて無意味というかただの妄想だから、ここにはカウントしない。
貧相だからこそ大事にできる
そもそも私自身、傘が飛んで人を傷つけるということを想像力ではなく、あくまで自分の体験から得たわけで。私自身の想像力も他の人同様たいしたことはない。他の人も私同様たいしたことはない。
ちょっと想像すればわかることが、多くの人にはわからない。
ちょっと想像すれば回避できた大事故を、人は回避できない。
なぜなら、ちょっとの想像もできないほど、人の想像力は乏しいからだ。
もちろん、人類総体としての想像力は、凄まじいものがある。
ドラえもんの「未来の道具」に近いものが今ではいくつか実現している。
けれど個々の想像力がすごいのではなく、塵が積もって山になった結果だし、小さな想像力を大事に使ってきた天才秀才のおかげでもある。
とはいえ、山にならなかった塵もいたるところにあることだろう。
他人の、そして自分の想像力が貧相でレアなものとわかれば、それを大事に使うことができる。
想像力は無限大、なんて思っていたら、一つ一つの想像を大切にすることは、きっとできない。
私はそう思う。
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