モノと人格について。
不要な私物を処分するようになると、妙に他の人のものが鬱陶しく見えることがあります。特に親のモノ。親は全く使わないモノでも大量に所持して生活しています。
親の家を見ると、どんどん物を処分したくなりますが、いつもグッとこらえています。
自分は自分。他人は他人。
他人の物を勝手に捨てるのはダメなのはだれでもわかるけれども、親や配偶者、子供のものを捨てるのに躊躇しない人もいます。
でもそれは良くないなぁと思います。
物には人それぞれの記憶や思い出と結びついていますし、人は変化をおそれます。
動機が相手のためであっても、客観的に「正しい」判断であっても、それを相手に押し付けるのは差し控えたほうがいいです。
ミステリーを読んでいる人に、「こいつが犯人」と教えることが、読書の楽しみを奪う行為であるのと同様、「これが正解」と教えることは、人生の楽しみを奪う行為でもあるのです。
相手を自分のことのように考える、というと聞こえはいいですが、相手と自分の人格を同じに考えることは、同時に、相手の人格を否定することでもあります。
モノは外部的人格
ここで『人格」という単語が出てきました。よく本棚を見れば相手の思想がわかる、といいます。
所有物はその人の記憶と結びついている場合が多く、体の外にある人格(外部人格とでも呼びましょうか。)といっていいかもしれません。
相手の所有物が、外部人格なのか、それとも単なる物なのか、これは本人にしかわかりません。
ガラクタでも人格の一部だということも十分にありえます。
国等が公共物を処分することについて
ふと思ったのは、公共物の場合どうなるんだろうということです。小学校の古い校舎を解体する、というと結構もめます。
滋賀県の豊郷小学校もそうでした。
学校に思い入れのない人は、割りとドライに発言します。
「今の子供達にとって新しい学校のほうが大事」
一方、思い入れのある人は、猛烈に反対します。
「思い出の場所を壊すな!」
その温度差は強烈ですが、公共物は、自分の物とも他人の物ともいえる性格なので、その処分は大変むずかしいものになります。
さらに、豊郷小学校の場合、建築家ヴォーリズが作った凝った建築だったので、ややこしいことになりました。(建築当初はヴォーリズは有名な建築家、というわけでもなかったとはおもいますけど)
処分のことだけを考えると、公共物は、思いのこもりにくい没個性的なモノがよいのかもしれませんが、「つまらない」という人も出てくるでしょうね。
[スポンサーリンク]
[スポンサーリンク]