イラストレーターあきまん氏に学ぶ『アドバイス罪』。外野からのアドバイスは有害だ、というコンセプト
カプコンのゲーム・ストリートファイター2、アニメ∀ガンダムのキャラ、キングゲイナー、コードギアスのロボットなど、数々の名作に関わったイラストレーター安田朗氏(通称あきまん氏)は、twitterでアドバイスを受けると、アドバイスしてきた相手をブロックするようにしているそうです。
(注:ブロックとはツイッターにおける絶交のようなもの。ブロックされるとブロックした人のツイートは見られなくなる)
アドバイス罪ってなに?
たとえば、あきまん氏「前の家の机の下が埃だらけであきれ果てたのでルンバ買おうと思いました。」
このようなつぶやきに対して、「(ルンバではなく)こっちのほうはどうですか?」
と別の商品を薦めた人をアドバイスをしてきた人をブロック。
また、
あきまん氏「今家にある荷物を半分にしたい」「書籍は7割捨てる」
フォロワー「ブックオフは電話すれば引き取りに来てくれるサービス有りますよ。ただダンボールに箱詰めしないといけないですが。」
あきまん氏「アドバイスまことにありがとうございます」「アドバイス罪でブロックさせていただきました」
という風に、アドバイスしてきた人は、アドバイス罪でブロックされてしまうのです。
初めて聞いたときは、結構驚きました。
善意でアドバイスをしてくれた人をブロックする。
どうかしているのでは? と思いました。
しかし、あきまん氏は信念を持ってこの『アドバイス罪』を掲げ実行しています。
アドバイス罪を設ける理由
安田朗(あきまん)氏がなぜ、アドバイス罪なる概念を作って、善意のアドバイザーを切り捨てるのか。それは、- 自分で考えたいのに考えるチャンスを奪う
- 求めてもないアドバイスを受け入れると脳みそが死ぬ
- 俺の敵が悪意を持って嘘を教えることもある
からだ、とおっしゃっています。
つまり、あきまんさんは「善意だろうが、無責任な外野からの意見(アドバイス)は有害」と考えているわけです。
そういう意見もあると思います。
実際あきまんさんのアドバイス罪という考え方に対して、「アドバイスされても取捨選択すればいいだろ」と言われることが多いです。
しかし、たとえばミステリー小説を読んでいて、横から「こいつが犯人だよ」と言われて果たして、「こいつが犯人かどうかはまだわからない」と思いながら小説を読み進めることはできるでしょうか? できないでしょう。犯人を言われた瞬間興ざめしてしまい、元には戻りません。取捨選択どころではありません。
将棋やチェスをしていて、横から「次はこう指したほうがいいよ。こうするのが定石だよ」と言われて喜ぶでしょうか。そしてそれが正しい選択肢であったとしても、いえ正しい選択肢であればあるほど、著しい妨害となります。
人には試行錯誤する権利があります。失敗する自由もあるのです。
失敗し学ぶ。学び考えたことを次に活かす。
それが自分の人生を生きるということではないでしょうか。
思うに、「取捨選択すればいい」というアドバイスする側の言葉こそ、無責任であることの証拠といえます。
結局「アドバイス通りにして失敗しても、それは取捨選択したあなたの責任」ということですから。
そんな風にも考えました。
ブログの記事によっては、「~したほうがいい」とか結構書いている気がしますし。
ただ、ブログは、情報を見にきた人にだけ情報を与えるメディアなので、ツイッターとは違うと考えています。自分で能動的に主体的に探しに来た人に情報を公開しておくのは『アドバイス罪』を自ら犯しているわけでもなさそうかな、と。
結局、アドバイスって楽しいんだと思いますよ。娯楽とか承認欲求とか、マウンティングとか、存在アピールとかなんだと思います。
そういうことを自分で認識しておけば、わりとアドバイスしたい欲求の自制もできるし、不意にアドバイスを受けた時も受け流しやすくなる。
そのような気がします。
すべてのアドバイスを排除しているわけではない
一方で、船に穴が空いた時にみんなが一生懸命穴をふさぐわけじゃん、その時にサボっている人が居たら何か言うべきですよね。だけど逆に船に穴が空いている時にその船に乗っていない人が言う意見は真剣みが足りない上に嘘かも知れないわけです。これがアドバイス罪の原理です(あきまんさんのツイッターより)同じ責任を負う立場の人からのアドバイスは受け入れるのです。
つまり、あきまんさんは「善意だろうが、無責任な外野からの意見(アドバイス)は有害」と考えているわけです。
私の思うところ
アドバイスは取捨選択すればいい?NO!
無責任な他人からのアドバイスでも、聞いた本人が取捨選択すればいい。そういう意見もあると思います。
実際あきまんさんのアドバイス罪という考え方に対して、「アドバイスされても取捨選択すればいいだろ」と言われることが多いです。
しかし、たとえばミステリー小説を読んでいて、横から「こいつが犯人だよ」と言われて果たして、「こいつが犯人かどうかはまだわからない」と思いながら小説を読み進めることはできるでしょうか? できないでしょう。犯人を言われた瞬間興ざめしてしまい、元には戻りません。取捨選択どころではありません。
将棋やチェスをしていて、横から「次はこう指したほうがいいよ。こうするのが定石だよ」と言われて喜ぶでしょうか。そしてそれが正しい選択肢であったとしても、いえ正しい選択肢であればあるほど、著しい妨害となります。
人には試行錯誤する権利があります。失敗する自由もあるのです。
失敗し学ぶ。学び考えたことを次に活かす。
それが自分の人生を生きるということではないでしょうか。
思うに、「取捨選択すればいい」というアドバイスする側の言葉こそ、無責任であることの証拠といえます。
結局「アドバイス通りにして失敗しても、それは取捨選択したあなたの責任」ということですから。
自分が浴びる情報は出来る限りコントロールした方がいい
情報の特性として、一度知った情報を知らなかったことにするのは、記憶喪失にならない限り無理だということです。
ですから、自分にとって有害な情報は可能な限りシャットアウトするのは、良いことだと思います。
当然有益な情報が入ってくることも減りますが、それでいいのです。
必要な情報は、自分で能動的に、主体的に探す。
見つからなかったら仕方ない。
ブログはアドバイスかどうか?
アドバイス罪というコンセプトに賛同するなら、ブログもやめたほうがいいのかなぁ。そんな風にも考えました。
ブログの記事によっては、「~したほうがいい」とか結構書いている気がしますし。
ただ、ブログは、情報を見にきた人にだけ情報を与えるメディアなので、ツイッターとは違うと考えています。自分で能動的に主体的に探しに来た人に情報を公開しておくのは『アドバイス罪』を自ら犯しているわけでもなさそうかな、と。
アドバイスは娯楽。アドバイスは存在アピール
こうしてみると、アドバイスを受ける側に立った場合とアドバイスをする側に立った場合とで、少しダブルスタンダードなところかもしれません。受ける側のときは厳しく、する側のときは甘めです。結局、アドバイスって楽しいんだと思いますよ。娯楽とか承認欲求とか、マウンティングとか、存在アピールとかなんだと思います。
そういうことを自分で認識しておけば、わりとアドバイスしたい欲求の自制もできるし、不意にアドバイスを受けた時も受け流しやすくなる。
そのような気がします。
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